鍼灸の起源

鍼灸はいつから始まったのでしょうか? 鍼灸の初期段階については明確にこれといった確かなものはありませんがなるべく順を追って見ていきましょう。 まずは気が遠くなるほどの昔から。このページでは中国の紀元前から紀元まで。

原始社会初期 170万年前~69万年前

旧石器時代。まだ火を使うことができず。ただ、そのへんの棒きれ等から手製の石の道具に持ち替え出す時代。 そして69万年前の北京人が火を使い出します。さすがに鍼はまだまだですけど、なでたりさすったり押したり、原始的な按摩はもうしていたかもしれません。IMG_2314

20万年前~5万年前 火を作り出す

伝説ではこのあたりから火をおこせるようになります。それまでは自然に発生した火を絶やさないようにしていたところを、人工的に火をおこせるようになったのです。1f77493e8fc355c6bfec6779f6a872ff_s

原始的温熱療法

火を扱えるようになると体を温めると元気になることに気づくのでしょう。北京原人の洞穴から焼け焦げた石が多数出土したそうです。考古学者たちの研究によればこれは温熱療法に使われていたらしいのです。石を火にくべて熱し、灰の中に入れて温度を適温にし体に当てていたようなのです。今で言う温石とかストーンセラピーに似ていますね。 ef2a22e4f94587789cb7aa28318cf290_s

お灸が先?

お灸

お灸が先に発明されたのではとする説があります。古代の人はもぐさを(お灸の原材料はもぐさ)燃やしてその煙で身を清めていたといいます。(現代ではお灸の煙に殺菌作用があることが分かっています)それがいつしか体にすえるようになったのではという話です。さっきの温石の経験や火を使う上での火傷の経験がお灸のきっかけになったのかもしれませんね。

最初は石の鍼?砭石

ヘン石

最初は砭石(へんせき)といって石でできた刃物のようなもので肌を傷つけ、膿を出したり血を出したり(瀉血と言って、あえて出血させる治療法で、世界各地に古くからある治療法です)していたのが始まりだと言われています。この砭石はへラ状のものから剣のような形の物もあります。後に石鍼(石でできた鍼。今の鍼と同じような形。)が考案されたと考えられます。

神様が作った? 伏羲

伏羲

鍼を考案したのは人面に龍の体をした伏羲(ふっき・ふくぎ)という、神様とする伝説もあります。 「帝王世紀」という古典には伏羲が百薬を賞味し九鍼を作り早死しそうな人を救ったとあります。 九鍼というのは今では古代九鍼等と呼ばれます。鍼には用途に合わせて実は九つの形のバリエーションがあるのです。 それにしてもインパクト大のお姿ですね。一緒に描かれているのは奥さんの女媧。

薬草の神様 神農(炎帝)

神農

司馬遷の史記には、神農は鋤をつかって草を刈り土を耕しこれを民衆に教えたとあり農耕の神と言われています。また、薬草の神様でもあります。 頭は牛で体は人、内臓が常に透けて見えているので薬草を舐めた時に内臓の状態を目視して薬草の効能を見極めていたという伝承もあります。 薬草をすべて自分の体で試したために一日に70もの毒に当たったとされています。農業や薬草治療の始祖とされ中国でも日本でもよく信仰されています。 なんにしても並々ならぬ努力と献身。人々が今でも神農を敬うのはこの献身への感謝の気持ちが強いからだと思っています。

伝説の黄帝

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前出の伏羲と神農(炎帝)との三人で三皇のひとり一人です。(三皇には諸説ありますが) ユンケル黄帝液の黄帝はこの黄帝からきています。 黄帝は生まれながらにして聡明で多才、有能な人であったとされ、今でも医学の神様として尊敬を集めています。 最初は一部落の長だったのが、卓越した戦の手腕で敵部族を退け統合吸収し中原の地(黄河の中流から下流あたり)を統一し、黄帝の名を名乗るようになったと言われます。

斉(せい)王を治した文摯 紀元前770年~403年

文摯

宋の国の医者「文摯(ぶんし)」は斉(せい)の王の病を治すために斉の国の太子に呼ばれて赴いた時、「王の病気は必ず治るでしょう、だが、その後私は王に殺される。なぜなら王の病は怒らせなければ治らない病だから。治せば私は殺されるでしょう。」といったそうです。それを聞いた太子は、必ず自分が王を諌めるからどうか頼むと懇願する。

太子のたっての頼みに応え、文摯は命をかけた治療に臨みます。

王との診療の約束を三度破り、すでに怒っている王の寝台に土足でひょいと登ってみせます。激怒した王は病は治りましたが怒りは収まらず、太子の言うことも聞かず、結局は釜茹でにされてしまったそうです。

患者を激怒させて治療したと伝えられるのは文摯だけではありません。少しあとの時代に活躍する華佗も同じことをしています。(華佗の話は次回に)

医緩 紀元前590年~紀元前573年頃 薬石効無く病膏肓に入る

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普(しん)の国の国王 景公(けいこう)が病に倒れ、秦の国から遣わされたのが医緩(いかん)です。彼が到着する前に景公は夢を見ます。夢の中では二人の子供が何やら話しています。「医緩は名医だ。どうしよう。」「膏肓(こうこう)にいればどうすることもできないだろう」こんな夢を見ていた景公の下に医緩が到着します。

すると医緩は、「病は肓の上膏の下にあります。ここでは薬も届きません。石鍼も刺せません。」

それを聞いた景公は医緩の診断力に敬服し、「あなたは名医だ。」と言って厚く礼をして秦の国に返したそうです。

膏肓は経穴(ツボ)です。肩甲骨の内側に有り、鍼がしにくい場所だと考えられていたようです。肺が近いので古代ではここに鍼をして失敗してしまう人もいたのかもしれません。それがもとで刺してはいけないツボのような位置づけがなされていたのかもしれません。

この故事から、不治の病、どうにもならない病を、「薬石効無く病膏肓に入る」と表現するようになったと言われています。石というのは鍼の事だったのですね。

古代の伝説の名医 扁鵲 紀元前500年

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姓は秦名は越人 秦越人(しんえつじん) 扁鵲と号したそうです。長桑君という名医(仙人という伝説も)に認められ医術を伝授され、脈を取るだけであらゆることを知り、人の死期まで言い当てたと言われます。「史記」扁鵲倉公列伝や古代の多くの書に登場する名医です。 この人も伝説には半分鳥で半分人間なんていうすごい伝説があります。 しかも人の内臓を透かし見たとまで言われています。あまりにいろいろわかるので当時の人にはそう噂されたのかもしれませんね。各地を遍歴して今で言う婦人科、耳鼻科、整形外科、小児科あらゆる病を治していったそうです。 扁鵲は煎薬・膏薬・鍼・石鍼・酒醪(しゅろう)を使ったと記されています。鍼と石鍼を分けて考えていたのでしょうか。

扁鵲についてはいくつかの有名なエピソードがあります。

ある時、扁鵲は虢(カク)という国を通りがかりました。するとちょうど太子が亡くなったとの事。 扁鵲は太子はまだ助かるといい、弟子に鍼を研がせ、鍼をすると動かなくなっていた太子は意識を取り戻し、膏薬を貼ると起き上がりました。 王様や家来は扁鵲は死人まで読みがらせるほどの名医なのかと驚いたそうです。扁鵲は死人を蘇らせたつもりはなかったのかもしれませんが。

もうひとつ有名な扁鵲のエピソード

扁鵲が斉の国に赴いたとき、斉(せい)の王、桓公(かんこう)に謁見します。 扁鵲は桓公に「病が腠理(そうり 皮膚の事、体の浅いところ)にあります。治療しないと」と言いますが、桓公は体に自信があるのか「自分は病気ではない」として扁鵲の治療を受けようとしません。 二度目に謁見したとき「病が血脈にあり治療しないと深くなります」と進言しますが、桓公は相手にしません。 三度目に病気が胃腸に入っていて治療しないと深くなることを進言しますがこれも相手にされません。 四度目には顔を見ただけで何も言わずに下がってしまいました。 不審に思って家臣が訳を聞きに行くと、 「病が腠理(そうり 皮膚の事、体の浅いところ)にあれば薬で治せます。血脈にあれば鍼石が及び、腸胃なら酒醪(しゅろう 薬酒)が及びますが、もう髄まで進行している。こうなれば治療しても治らない。」と言ってさっさと旅に出てしまいました。5日後桓公は病に倒れ、人をやって扁鵲を探させますが遠くに旅立ったあとだったという事です。 当時は治療を請け負って治せなかったり死なせてしまったりしたら殺されてしまう危険があるので扁鵲は桓公の病気が手に負えなくなったと見るや身の危険を感じ逃げ去ったのでしょう。

淳于意 倉公が遺したカルテ  紀元前215年~紀元前150年前

淳于意

斉の臨淄という所の人で斉の倉庫を管理する役職だったので、倉公と呼ばれたそうです。司馬遷の史記に扁鵲倉公列伝として扁鵲とともに伝記が残っています。 淳于意は診療記録を残しています「診籍」といって、今でいうカルテです。 史記には二十五例の診籍が遺されています。これは中国に現存する最古の整備されたカルテと言われています。 鍼灸と薬を使って治療していた様子が記されています。

現存する最古の医学書  紀元前778年 – 紀元前206年

五十二病方

秦から前漢の時代に書かれたもので手術や薬剤の貼付、温罨法・砭石・灸法・あん摩・角法(動物の角を用いた吸角法 今で言う吸玉、カッピングです)などの記載が有り、ちゃんと傷口をアルコールで消毒までしているのです。硫黄や水銀も消毒に使われていました。イタリアの外科医が12世紀に水銀で消毒をする実に千年以上も前にです。すごい。ただ、鍼についての記載はありません。

足臂十一脈灸経

馬王堆漢墓というBC168年(前漢初期)に埋葬された人のお墓から発掘されました。帛書といって絹に書かれた医学書です。写本で、オリジナルではないそうです。紀元前210年~190年頃に写本が作られ、原典は戦国時代後期紀元前778年 – 紀元前206年 秦の時代に書かれたようです。 鍼の記載はないものの、少なくともBC168年にはお灸は理論体系を持ち、経脈の考え方もあったということですね。今は十一ではなく十二の経脈がありますが。 鍼灸の歴史にとっては非常に意義のある発掘ですね。

黄帝内経(こうていだいけい)が著される 紀元前206年 – 8年

鍼灸の古典十一脈灸経では未完成だった東洋医学が完成されます。黄帝内経は東洋医学、中国伝統医学のバイブルです。 漢書芸文志という本があります。前漢(紀元前206年 – 8年)の宮廷の図書館にあった本の目録と解説です。そこに「黄帝内経十八巻」と書いてあります。 漢書芸文志は紀元前6年頃に成立した「七略」に基づくので、少なくとも、紀元前206年 – 6年頃には黄帝内経(今に伝わる黄帝内経と内容がそっくりそのままかはわかりませんが)は、あったという事になります。 中国伝統医学はこの黄帝内経で完成といっていいほどです。それほどの医学書です。ちなみにこれもオリジナルは現存しません。今あるのは写しです。長い年月で加筆、修正、一部散逸等があったとは思われますが、素問・霊枢の二篇からなり、基本の考え方、実際の鍼の刺し方などが書いてあります。伝説の皇帝、「黄帝」と医師たちとの問答形式となっています。 (黄帝内経は黄帝が記したと言われることもありますが、黄帝は伝説上の人物であり、黄帝内経が成立したと思われる年代よりはるか以前の人なので作成に直接関わっていたとは流石に考えにくいです) 当時の医書には黄帝の名前がついた書が沢山あります。

東洋医学年表

170万年前~69万年前              手製の石器や自然発生した火を使う

20万年~5万年前                火を起こせるようになる 温熱療法が生み出された

1万年~紀元前21正規              精巧な石器が作られる 砭石を用いて瀉血や排膿が行われる

紀元前778年から紀元前206年の間        十一脈灸経が記される

紀元前770年から403年             文摯 命と引き換えに斉王を治す

紀元前590年~紀元前573年頃          医緩 薬石効無く病膏肓に入るの故事

紀元前500年頃                 名医 扁鵲の活躍 諸国を遍歴する

紀元前215年~紀元前150年頃          淳于意 診療録「診籍」を遺す

紀元前186年                  十一脈灸経埋葬される

紀元前206年から6年頃             黄帝内経 完成

涪翁(ふうおう) 川のほとりの謎の名医

涪翁

涪水(ふうすい、四川省を流れる川)でいつも釣りをしている人がいました。人々は彼を涪翁(ふうおう)と呼びました。涪翁はどこの出身かもわからない人物ですが、病人を見ると鍼をし、即座に効果があったと言われます。

「鍼経」「脈診法」という書を遺したと言われています。(残念ながら現存しません)

後にこの書を見て教えを乞いにやってきた、程高(ていこう)という医師を弟子にとり、医術を教えたといいます。程高は後に、郭玉(かくぎょく)という人を弟子にとり技を伝授したと言われます。

郭玉(かくぎょく)脈診で帝の難問を解く

郭玉は前出の涪翁の孫弟子にあたります。広漢郡雒県(現在の四川省広漢県)の人で後漢書(ごかんじょ、中国後漢朝について書かれた歴史書)に伝記が記されています。卓越した技術に追随するものはなかったとか。特に鍼灸と脈診に秀でたと言われています。

郭玉の鍼がよく効くので不思議に思った和帝(AD89~105年)が彼に意地悪な問題を出します。

東洋医学の脈診は両方の手首の脈を診ます。そうしてその差異や脈の触感等で様々な情報を得るものです。

手の美しい男と、女性をカーテンで見えなくし、それぞれ片方の腕を出させ、ひとりの人間であるかのように見せて脈診をさせるのです。答えようによっては、郭玉は殺されてしまうかもしれません。

郭玉は

「片方は陽、片方は陰でありこれは普通の人間ではありません。どうしてこのような事になったのか私にはわかりませんが。」

と答えます。帝は大層感心したということです。

郭玉は身分の高低にかかわらず誠意を尽くして医術を施したと言われます。

建安の三名医活躍

建安の三名医とは華佗 董奉 張仲景の三人の名医の事です。

まずは華佗から

華佗

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麻沸散という麻酔薬を使って全身麻酔下での外科手術を行ったと言われています。

この時代からこんなことをする人がいたなんて驚きです。

技術、知識もさることながら度胸も半端なものではありませんね。

他にも「屠蘇」(お正月に飲む薬酒ですね おとそです)や「五禽戯」(導引といって健康気功体操ようなものです)の発明者としても知られています。

曹操の侍医だったので三国志にも登場します。曹操の頭痛やめまいを鍼や漢方薬で治療していたそうです。残念ながら最後は曹操に処刑されてしまうのですが。

道教では今も医神として崇められており、人気の高い華佗はツボの名前にもなっています。

華佗夾脊穴(かだきょうせきけつ)背骨の両脇に縦に並ぶ複数の奇穴(きけつ)の名前です。※奇穴とは比較的新しく発見された特別な効能を持つ経穴です。効果範囲が広く、大変良く効く使い勝手の良いツボです。中国の病院に見学に行った際ほぼ全員の華佗夾脊穴に鍼をしている先生を見たものです。

中国の鍼灸用品メーカーも華佗の名前にあやかっています。

中央に華佗の顔と名前が見えます。
中国の鍼灸用品メーカー 華佗牌

董奉 杏林高手

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董奉(とうほう)は仙人としても有名です。

彼は山に住み、病人を治療しては金銭を受け取らず。ただ、杏の苗を植えていくことだけを要求したそうです。

次第に董奉の家の周りは杏の林になり、米が豊作の時に杏と米を交換しておいて米が不作の時には置いてあった米を人々に分け与えたと言われています。

その故事から、医学界や医師の事を「杏林」その中でも名医を「杏林高手」と呼ぶようになったそうです。

そして董奉は「真君」と称されたといいます。

また、董奉はお粥の名にもなっています。真君粥というのがそれです。

真君粥 杏子のお粥 のどの痛みやしつこい便秘に

材料: 粳米 杏子

作り方:  杏子を茹でて種を取り、出来上がる直前のお粥にいれて完成

杏といえば董奉というようにこの故事から、ちなんで付けられたのだと思います。

張仲景(AD150~219)

医聖

南郡(今の河南省)の人。別称(張機)

郡の長官を務めるなど、優秀な人物だったそうです。幼い頃から学問が好きで、医学にも精通し、温厚で正直潔白な人柄で誰からもしたわれたと聞きます。張仲景には二百人あまりの親族がいたといいます。

しかし建安元年(AD196年)この時代、疫病によって多くの命が失われ、わずか十年にも満たない期間に張仲景の一族も三分の二が疫病にかかって死亡してしまいました。この疫病の多くは「傷寒」と呼ばれるものでした。張仲景はこの傷寒について広く医学を研究し、「傷寒雑病論」を記します。この 「傷寒雑病論」は今でも名著として輝いています。

池田市の鍼灸南天では、
さまざまなお悩みに取り組んでいます。

肩こりはもちろん得意ですが、
なかでも、
頭痛、坐骨神経痛、
メンタル(パニック障害やうつ)、
婦人科(生理痛や不妊症等)

には当院の鍼灸をぜひお試しください。
池田市以外にも豊中市、川西市、箕面市、宝塚市など
大阪府北摂地域全域から多数ご来院頂いております。
池田市の鍼灸(はり・きゅう)南天