涪翁(ふうおう) 川のほとりの謎の名医
涪水(ふうすい、四川省を流れる川)でいつも釣りをしている人がいました。人々は彼を涪翁(ふうおう)と呼びました。涪翁はどこの出身かもわからない人物ですが、病人を見ると鍼をし、即座に効果があったと言われます。
「鍼経」「脈診法」という書を遺したと言われています。(残念ながら現存しません)
後にこの書を見て教えを乞いにやってきた、程高(ていこう)という医師を弟子にとり、医術を教えたといいます。程高は後に、郭玉(かくぎょく)という人を弟子にとり技を伝授したと言われます。
郭玉(かくぎょく)脈診で帝の難問を解く
郭玉は前出の涪翁の孫弟子にあたります。広漢郡雒県(現在の四川省広漢県)の人で後漢書(ごかんじょ、中国後漢朝について書かれた歴史書)に伝記が記されています。卓越した技術に追随するものはなかったとか。特に鍼灸と脈診に秀でたと言われています。
郭玉の鍼がよく効くので不思議に思った和帝(AD89~105年)が彼に意地悪な問題を出します。
東洋医学の脈診は両方の手首の脈を診ます。そうしてその差異や脈の触感等で様々な情報を得るものです。
手の美しい男と、女性をカーテンで見えなくし、それぞれ片方の腕を出させ、ひとりの人間であるかのように見せて脈診をさせるのです。答えようによっては、郭玉は殺されてしまうかもしれません。
郭玉は
「片方は陽、片方は陰でありこれは普通の人間ではありません。どうしてこのような事になったのか私にはわかりませんが。」
と答えます。帝は大層感心したということです。
郭玉は身分の高低にかかわらず誠意を尽くして医術を施したと言われます。
建安の三名医活躍
建安の三名医とは華佗 董奉 張仲景の三人の名医の事です。
まずは華佗から
華佗
麻沸散という麻酔薬を使って全身麻酔下での外科手術を行ったと言われています。
この時代からこんなことをする人がいたなんて驚きです。
技術、知識もさることながら度胸も半端なものではありませんね。
他にも「屠蘇」(お正月に飲む薬酒ですね おとそです)や「五禽戯」(導引といって健康気功体操ようなものです)の発明者としても知られています。
曹操の侍医だったので三国志にも登場します。曹操の頭痛やめまいを鍼や漢方薬で治療していたそうです。残念ながら最後は曹操に処刑されてしまうのですが。
道教では今も医神として崇められており、人気の高い華佗はツボの名前にもなっています。
華佗夾脊穴(かだきょうせきけつ)背骨の両脇に縦に並ぶ複数の奇穴(きけつ)の名前です。※奇穴とは比較的新しく発見された特別な効能を持つ経穴です。効果範囲が広く、大変良く効く使い勝手の良いツボです。中国の病院に見学に行った際ほぼ全員の華佗夾脊穴に鍼をしている先生を見たものです。
中国の鍼灸用品メーカーも華佗の名前にあやかっています。
董奉 杏林高手
董奉(とうほう)は仙人としても有名です。
彼は山に住み、病人を治療しては金銭を受け取らず。ただ、杏の苗を植えていくことだけを要求したそうです。
次第に董奉の家の周りは杏の林になり、米が豊作の時に杏と米を交換しておいて米が不作の時には置いてあった米を人々に分け与えたと言われています。
その故事から、医学界や医師の事を「杏林」その中でも名医を「杏林高手」と呼ぶようになったそうです。
そして董奉は「真君」と称されたといいます。
また、董奉はお粥の名にもなっています。真君粥というのがそれです。
真君粥 杏子のお粥 のどの痛みやしつこい便秘に
材料: 粳米 杏子
作り方: 杏子を茹でて種を取り、出来上がる直前のお粥にいれて完成
杏といえば董奉というようにこの故事から、ちなんで付けられたのだと思います。
張仲景(AD150~219)
南郡(今の河南省)の人。別称(張機)
郡の長官を務めるなど、優秀な人物だったそうです。幼い頃から学問が好きで、医学にも精通し、温厚で正直潔白な人柄で誰からもしたわれたと聞きます。張仲景には二百人あまりの親族がいたといいます。
しかし建安元年(AD196年)この時代、疫病によって多くの命が失われ、わずか十年にも満たない期間に張仲景の一族も三分の二が疫病にかかって死亡してしまいました。この疫病の多くは「傷寒」と呼ばれるものでした。張仲景はこの傷寒について広く医学を研究し、「傷寒雑病論」を記します。この 「傷寒雑病論」は今でも名著として輝いています。